STORY.1

17.July

鯨と歩んだ、木の屋60年の物語

「今日は、いい鯨が入ったよ〜。」鯨の行商から、木の屋は始まりました。二代にわたって石巻で奮闘した歴史が、缶詰には詰まっています。

鯨のまち、石巻

かつて日本では、4種類の肉が食べられていました。
牛肉、豚肉、鶏肉、そして鯨肉。
鯨肉は今やすっかり貴重なものになり、「食べたことがない」「見たこともない」という人も少なくありません。

しかし木の屋の歴史は、この鯨なくして語ることはできないのです。

「石巻水産」(後の木の屋)が創業した昭和32年は、まだ戦後の食糧難を引きずっていた時代。鯨肉は栄養豊富な食料として、日本の食卓に欠かせないものでした。
当時、石巻の港には三陸の鯨が活発に水揚げされていました。肉だけでなく、鯨の皮や脂を加工する工場も多く立ち並んだことから、石巻は次第に「鯨のまち」と呼ばれるようになりました。

一台のリヤカーから
すべてが始まった

そんな折、「新鮮な鯨肉をたくさんの食卓に届けたい」と考えたのが、木の屋の初代社長。朝早くリヤカーを引いて港で鯨肉を買い付け、石巻や内陸の登米周辺で行商を始めました。

やがて鯨肉を国内外に広く届けるため、缶詰商品の製造を開始。まずは下請けとして製造ノウハウを蓄積した後、自社ブランド商品として、永遠の看板商品「鯨大和煮」を生み出しました。
味付けは、醤油と砂糖、それから生姜を少々。
甘辛く、ピリリとアクセントのきいたその味は、今でも全く変わっていません。

本物の美しさを
目指した
二代目の挑戦

創業から約40年が経った1999年、二代目へ代替わりした石巻水産は、屋号を「木の屋石巻水産」に変更します。

「石巻水産の愛称、『イシスイ』って呼ばれてたのよ。でも、ちょっと発音しづらかったから、変えちゃったの」と笑うのは、現社長の弟である副社長。
「まぁ、それは半分冗談として、二代も続けられたことだし、老舗らしさが伝わる名前にしたいなと思って。名字(木村)の「木」と「屋」を組み合わせて『木の屋』と名付けたんです」

「石巻に根付く企業として、地元のものを活かした事業を地元で展開したい。そして『石巻』という産地を全国に広めていきたい。」そう考えた二代目は、鯨に加えて三陸の魚を使った缶詰づくりを開始しました。

心がけたのは、本当においしいと思う商品になっているかどうか。

「自分が食べて心を動かされるものでなければ、お客様に喜んでもらえるはずがない」という信念のもと、作り手自身が納得するまで味のクオリティを追求。例えば、朝獲れた魚をその日のうちに缶詰にすることや、砂糖は喜界島産のものを使うことなどは、二代目のこだわりから生まれました。
社長は言います。「一番旬の脂がのった新鮮な魚を使って作る。そうすれば、自然といいものができます。石巻の人に『あそこの缶詰はおいしいよ』って言ってもらえるような商品でありたいと思っています」

その結果、発売した商品は相次いで宮城県の水産加工品品評会などで賞を受賞。あまりの美味しさに感動し、それがきっかけで木の屋に入社する人まで出はじめたとか。

缶詰の絆が支えた
震災からの復活

順調にファンを増やしてきた矢先、東日本大震災が石巻を襲います。
会社も工場も、魚市場さえも津波で流された木の屋は、全てを失いました。

「当時は廃業を覚悟するほど、絶望的な状況でした。」と副社長は振り返ります。「おいしいものを食べてもらいたい一心で頑張ってきた私たちが、なんでこんな目に会わなきゃいけないんだって、悔しくて悔しくて。」

そんな状況の中、「もう一度木の屋の缶詰が食べたい!」という応援が全国から寄せられるようになりました。倉庫の中に、泥に埋もれた缶詰が残されていることが分かると、震災前から親交のあった都内の飲食店からは「泥付きでも構わないから、流された缶詰を送って欲しい。こちらで販売して復興資金に当てよう」というあたたかい言葉も。

「缶詰でつながったたくさんの絆のおかげで、なんとかここまで立ち直ることができました。本当に、こだわりの缶詰あってこその木の屋だな、と思いますよ。」

2013年、内陸部に「美里町工場」が新設されました。
そのデザインは鯨をイメージしたもので、黒い壁となだらかな曲線を描く屋根が印象的です。
見渡すかぎりの広々とした田んぼの真ん中に、堂々と立つ大きな工場。

たくさんの希望を乗せて、鯨は石巻で力強く泳ぎ続けます。